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[OSSについての幻想]
端的にいうと、OSSと商用、スーツとギーク、伽藍とバザールの、ある種のドグマティックな議論は、対立軸の精鋭化で成り立っていた議論だと思います。伽藍自体が崩れたときの、バザールの位置づけは、当然変わります。ギークの上司がいつのまにやらスーツだったりすれば、これもまた、“ギーク”の位置付けも当然変わります。商用ライセンスが成立しづらい現状での、OSSの位置付けも当然変わりつつあると言えるでしょう。
そもそもOSSは「伽藍とバザール」で表現されている文化や、ライセンスのことの起こりや、その後の論争を見ればわかる通り、その成立の仕方や、発展の背景には、常にアンチテーゼの対象としての、商用のソフトウェアがあったことは否定できません。
悪役(ヒール)としての商用ソフトがあったために成立していたOSSの絶対性は、商用ライセンスのポジションが崩れつつある現状では、もはや過去形になりつつあります。OSSと商用ライセンスという軸がかわりつつあります。残ったのは形骸化した法律論だけ、ということになるか、それとも別の「形態」に変わることができるのか?関わっている人間として、非常に興味があります。
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もともと学校教育の機能の一つは、子供たちの無根拠に高い自己評価を、適切に下方修正し、身の丈にあった生活設計やキャリアに軟着陸させることにありました。「身の程を知れ」ということです。
でも、現在の教育現場では「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても、「身の程を知れ」、「分をわきまえろ」というアナウンスに対してはつよい抵抗を覚悟しなければなりません。
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考えれば当たり前のことですが、子どもたちがその「無限の可能性」を開花させるためには、どうしたって、自分がどれほど無知で非力であるか知る必要があります。
自分たちがどれほど小さな「箱」に閉じ込められているのかに気づかない子どもが、日の光を浴びて、空気を一杯に吸って「開花する」ことはありえません。
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教育の場では「君には無限の可能性がある」という言明と「君には有限の資源しか与えられていない」という言明は同時に告げられなければならない。
"呪いの時代 (via rocketpencil)